2024年6月17日月曜日

戦争・軍事的暴走から命を守る孫子の三原則

  Twitter上で〝外交は軍事力の裏打ちが無いと効力はない〟と呟いた方がいた。

 もちろんこれは一部の例のみを取り上げて一般化した間違いで、多くの外交において軍事力の裏打ちは必要ないし存在しない。

 こんな常識的な批判を投稿したところ、無数の反論が寄せられた。そのほとんどは無知と感情論でしかなく、ここで紹介する手間にも耐えられるものではない。

 ただそこで痛感したのは、日本の市民の中に広がる軍事についての無知と知ろうともしない無関心だ。戦争に賛成するにしろ反対するにしろ、まず戦争とは何か理解するところから始めるべきだ。

 マルクスは言う。〝問題を正しく立てれば答えは自ずからその中にある〟

 そこで、ここで戦争とは何か、軍事とは何かについて検討してみたい。

 ただし、私は軍事の専門研究者ではない。実戦を生き延びる必要から軍事について必死に学んできただけの存在だ。だから、ここで検討するのは実践的な視点からの軍事の基礎に限られる。ただ、厳密な正確性はない代わりに理解は容易いかもしれない。

【前提:外交と軍事の定義】

 まず、外交とは何か、軍事とは何か、簡単に規定しておこう。

 外交とは、彼我双方の意志と利益の調整によって、自らの意志と利益を最大限に実現する能力とその行為

 なお、日本政府の定義は次の通り。

 「いずれの国の外交も,その目的は,国際社会における国益の確保,すなわちその国の利益・権利の擁護と伸長をはかることと,国際社会の一員として世界の平和と繁栄に貢献することにある。」

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1969/s43-13-1-2-1.htm

 軍事とは、自らの意志と利益を相手に、逆らえないものとして強制する能力とその行為

 この外交と軍事の表面的類似性から、外交と軍事を同一視したり、外交には軍事が不可欠という誤謬が生じる。しかし外交と軍事は全く別物であり、時に対立する。〝戦争(軍事力の行使)は外交の失敗の結果である〟とも言われる所以である。

 軍事は外交の一手段ともなりうるが、軍事によって実現した外交的成果の多くは不安定で、一時的なものであり、時間経過と共にその維持コストが上昇して最後には崩壊する。その典型が第一次大戦後のベルサイユ体制である。戦勝国の過度な戦勝利益追求は敗戦国ドイツを追い詰め、最終的に第二次大戦を生み出した。

【軍事を理解するための3原則】

 軍事を理解するための最良の教科書は孫子とクラウゼウィッツである。

 ベトナム敗戦後の米国軍部が、敗北の原因究明のために研究したのも孫子とクラウゼウィッツだった。

 特に孫子(の兵法)は、元防衛大学校教授の杉之尾宜生によれば「『武力戦』(戦争のこと)の回避、抑止そして短期化を志向する兵法書」(『現代語訳 孫子』「はじめに」)であり、戦争と軍拡に反対する市民こそが学ぶべき対象なのである。

《大前提》

 軍事は科学であって、信仰ではない。したがって、正確な現状認識から出発し、合理主義によって方針が立てられなければならない。

 〝神から与えられた使命〟とか偏狭な愛国心、排外主義は徹底して排除しなければならない。相手を理解することが肝心であって、特に相手の蔑視による過小評価は必ず軍事における失敗に直結する。

《第1の原則》

 孫子「兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。」

 〝軍事を弄んではならない〟と言われる根拠である。

 軍事とは常に膨大な犠牲と負担、リスクを伴うものであるから、犠牲と負担とを最初に考えなければならない。

 第1原則をより具体化すれば次のようになる。

1、軍事によって獲得される利益は常にその獲得に要した犠牲、負担と比較し、それに見合ったものか否かが点検されなければなならない。

 〝一将功なって万骨枯る〟のような闘い方はどれほどの利益が生じようとも愚策中の愚策であると孫子は考える。

2、軍事によって生じる犠牲と負担がそれに容認しうる限界を超える場合には、利益がどれほど多くても軍事を利用してはならない。

 軍事的熱狂のもとで最初に忘れられるのはこの犠牲と負担の存在である。そして犠牲と負担の過剰を訴える者は怯懦、非国民と吊し上げられさえする。その結果の無謀な戦争突入はかつての日本のように国を滅びの瀬戸際にまで追いやってしまう。

 だからこれが、第1の原則である。

 なお、孫子を戦争に勝利するためのノウハウ本と考える一部の人間(特に軍人に多いようだ)はこの一文を軽視する。せいぜい、〝戦争に負けると国が滅びかねないから、戦争に勝つためにそのノウハウに習熟せよ〟という警告としてしかとらえない。孫子はそのような通俗的警告を述べてはいない。孫子は国にとっての戦争、軍事の意味を解明し、その結論として戦争は可能な限り避けるべきであり、軍事は可能な限り使用すべきではないと述べているのである。この思想は次の「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり」に端的に示されている。

《軍事に頼らない国家を作る5ポイント》

 そして、孫子はそうした軍事に頼らない国家を作り上げるために必要な五つのポイントを挙げる。

 まず第一にあげられるのが最重要なポイントが道、すなわち内政の重視である。

 ついで天、すなわち国際情勢に適応すること、第三に地、すなわち地理的条件、言い換えると外交の活用である。

 さらに第四が将、すなわち人材の登用、第五が法、すなわち法制度と官僚制度などの充実と続けられる。つまり政府機関の有能性、機能性の追求である。

 要するに、国が民衆の利益を第一に経営され、民衆もまたそうした国を支持するなら、軍事に頼る必要も他国からの軍事的挑発につけ込まれる可能性も低くなる。

 戦争や軍事的冒険主義がしばしば、内政の失敗から国民の目を逸らすために行われることを考えるなら、この孫子の指摘を常に想定することはとても大切である。

 ここでも、戦争の勝利方法を求めて孫子を読む人間は、この「五事」を戦争動員の問題、戦略・戦術における情勢、地の利などに矮小化して理解する傾向がある。しかし、孫子がここ(始計編)で述べているのは国家にとっての戦争・軍事の意味であって、戦略・戦術論ではないからそのような理解は誤りである。

《第2の原則》

 孫子「是の故に百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。」

 〝戦わずして勝つ〟といわれる文章である。

 政治(外交)において非軍事的手段がまず選択されるべきであり、非軍事的手段が尽くされない限り軍事的手段を使用してはならない。

 これについて前に紹介した杉之尾も「国家間の紛争解決は、現実に武力を行使するのではなく、平素の政治・外交的努力によって解決すべきことを主張するもの」(前掲書、p.57)と理解している。

 軍事の直接の目的は、〝相手の戦闘力を破壊することで相手の戦闘意思を挫くこと〟とされる。しかし、孫子はそれは愚策だとする。

 孫子「凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ」

 およそ軍事を使う限り「国を全うする」ことはありえない。軍事を政治(外交)全体の中で考え、非軍事的手段を優先し、どうしても必要な場合はそれと軍事的手段とを有機的に結合する、この考え方はクラウゼウィッツとも共通する。

 非軍事的手段による政治(外交)は軍事よりはるかに過酷で困難な道である。自らの意思や利益が100%貫かれることはまれで、妥協と譲歩が常道となる。そこで非軍事的手段を放棄して軍事に走るという安易な道を選択する誘惑は強い。日本の国際連盟脱退がその典型である。最近のイスラエルのガザ侵攻も同じで、これは同時に軍事的勝利が政治的敗北を生み出している例でもある。

 だからこれが、第2の原則である。

《第3の原則》

 クラウゼウィッツ「戦争とは別個の手段をもってする政治の継続である」

 戦争とは、政治的目的を実現するための手段であるから、常に政治的目的から戦争の可否、継続、中断が判断されなければならない。

 いったん、戦争が始まると相手の打倒=戦闘力の破壊に意識が集中し、政治目的が見失われてしまう。また、戦争〜戦闘における勝利は必ずしも政治目的の寄与に直結するとは限らず、政治目的実現の桎梏と化すことも少なくない。

 孫子「ゆえに、敵を殺す者は怒りなり」(敵の軍隊を殲滅することを戦争・軍事行動の目的とするのは、思慮を失った無謀無用の用兵である)

 戦前の日本軍、特に海軍においては日本の継戦能力の欠如が理解され、対米戦における一定の勝利の後の和平交渉が想定されていたと思われる。しかし、真珠湾攻撃の成功はその政治目的を見失わせ、闇雲に軍事的勝利を追求することで和平交渉の道を閉ざす結果になった。また、ミッドウェーでの大敗後も日本政府・軍部は逆転の一撃を求めて、無謀な軍事行動を継続し、無意味な犠牲を積み重ねていったのである。

 その典型が沖縄戦である。その犠牲の大きさ(第1の原理)からしても、統一した政治目的の欠如(第3の原則:〝本土決戦のための時間稼ぎ〟と〝和平交渉のための逆転の一撃〟という齟齬)からしても、それは戦前の日本政府・軍部の最大の愚行と言わなくてはならない。

 孫子「利に非ざれば動かず、得るに非ざれば用いず、危うきに非ざれば戦わず」(火攻編:国家目的に寄与しない戦争は、目的実現の可能性のない戦争は、他に手段のない危急存亡の時でなければ戦争は行ってはならない)のである。

 また陸軍については、杉之尾は日本政府・軍部の政治目的の欠落を弾劾し「そのため帝国陸軍は、中国大陸における個々の作戦・戦闘には勝利しておりながら、気がついてみたら戦争に敗北する最低の愚を犯し」(前掲書「はじめに」)と厳しく批判している。

 だからこれが第3の原則である。

 孫子もクラウゼウィッツも研究を進めれば軍事と戦争についての理解は深まると思う。残念ながら私にはその機会がなかった。多くの市民にとってもそうだと思う。

 しかし、ここに述べた3原則をもとに軍事と戦争を理解しようとするだけで、戦争と軍事を弄ぶ政府の軍事冒険主義に反対し、戦争から利益を得る軍需産業とそれに結合した政治家、その尻馬に乗る戦争オタクの好戦主義的デマを跳ね返すことが可能になる。

繰り返しになるが、

戦争を何が得られるかではなく、それによって失われるものを基準に評価すること、

戦争に代わる非軍事的手段を追求すること、

戦争は政治的目的を実現する手段であり、軍事的目標ではなく政治的目的を基準に判断すること

 これが、戦争という暴挙を防ぐ最良の手段となる。

【中国脅威論=軍事冒険主義という愚行】

 現在、日本政府は中国の軍事的脅威が高まったとして、国防費の倍増を決定して軍備の増強を実行している。これは、まさに軍事を弄び、戦前の日本政府・軍部の失敗を再現する愚行にほかならない。そこにあるのは一部軍需産業の利益のために国家と市民を犠牲にする腐敗した政府である。

 内政つまり市民生活を犠牲にして軍部拡大に走っても、軍備増強は相手のさらなる軍備増強を引き出すだけであり、軍拡競争は軍事的にも政治的にも何らの成果を上げることができない(第1、第3の原則)。孫子も「作戦編」で闇雲な軍事依存が生み出す犠牲と負担の大きさ、その危険性を厳しく指摘している。

 また、脅威論の背景に中台問題という中国の内政に関わる外交的問題が存在し、それは非軍事的外交手段によって解決すべきで問題であると同時に、局外者の日本が関与すべき問題ではない。にもかかわらず、日本政府は何らの政治的獲得物もないこの問題に軍事的手段で対応しよう(第2原則)としている。

 特に日本政府が、脅威を口実に改憲を行い、憲法第9条・平和主義という強力な政治的効果を持ち、実績もある非軍事的外交手段を放棄しようとしているのは愚行中の愚行というべきである。世界最強の軍事力を持つ米国も9.11を防げなかった。西欧諸国でもほぼ同様である。しかし、日本では未だ大規模攻撃はない。これが憲法第9条の非軍事的外交の効果である。

 「攻めてきたらどうする」などという俗論は、孫子を学んでその軍事行動における相手国の犠牲・負担の大きさ、侵攻の前提となる政治目的・獲得物の欠落を理解すれば、机上の空論でしかないことがわかる。「何のために、何を目的として攻めてくるのか?」。この反論にまともに答えられる者はいない。

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