2024年12月27日金曜日

「証拠裁判主義」を否定した大阪高裁・飯島健太郎判事

  冤罪犠牲者の一人として刑事裁判で裁判官が最高裁や政府から独立して判断し、無罪推定の原則を貫く様求めている私が、大阪高裁・飯島健太郎判事の訴追を執拗に求めるのは、飯島判事が日本の刑事裁判史上で初めて、近代刑事裁判の根本的原則である「事実の認定は、証拠による(刑訴法第317条)」を否定したからだ。

 法律専門家はこの原則があまりに当然過ぎて、飯島判事がそれを否定したことに気がつかないようだ。

 刑事裁判は、検察、被告人・弁護人がそれぞれ有罪、無罪を示す証拠を提出し、相手の証拠の欠陥を攻撃して進められる。その立証活動の前提にあるのは有罪の証拠は無罪の証拠にならないし、無罪の証拠は有罪の証拠ではないということであり、人の発言や行動は嘘をつかねばならない様な特別の事情がない限りその人の意思を示すということだ。

 滋賀医大生事件で検察側は相当程度詳細かつ具体的に何が行われたか立証した。弁護側もそれを否定できなかった。ところが飯島裁判官は突然、女性の性交拒否の発言や性交時の抵抗は女性の拒否の意思を示さない、逆に〝「性交時によくある」合意〟の証拠だとしてしまった。検察官が有罪を示すものとして立証してきた証拠を飯島裁判官は恣意的に無罪の証拠としたのだ。

 飯島判事の裁判では、検察も弁護人も自ら提出した証拠が有罪の証拠となるか、無罪の証拠になるか、判決までわからない。それでは立証活動や証拠による事実認定は不可能だ。

 有罪の証拠を無罪の証拠にできるなら、弁護側の無罪を示す証拠も同様に有罪の証拠にできる。

 例えば被告人が事件発生時のアリバイの証拠を提出する。検察は当然アリバイ崩しをする。ただ〝アリバイが成立すれば無罪〟という点は被告側だけでなく検察も裁判所も認めるだろう。しかし飯島裁判長だけは違う。〝アリバイの存在は、犯人のアリバイ工作の時によくみられることであり、有罪の証拠〟とでも言って有罪判決を書くだろう。

 訴追を求めるのは無罪判決が誤っているからだからではない。飯島裁判官の下では近代刑事裁判が、立証活動が不可能だからだ。

【参考資料】

滋賀医大生・性暴力事件、大阪高裁はなぜ「無罪」と判断? 【判決詳報】

https://www.bengo4.com/c_1009/n_18282/

2024年11月26日火曜日

新たな袴田さんを生まないために

 新たな袴田さんを生まないために

- 袴田弁護団 再審の決定は「裁判員裁判の影響か」 -


 本年(2024年)9月26日、静岡地裁は再審裁判で無実の袴田巌さんに無罪判決を出し、静岡地検が10月9日に控訴を断念して無罪が確定した。

 この無罪判決を受けて再審法改正や死刑制度の廃止を訴える声が広がっている。今も冤罪と闘う多くの市民が全国にいることを考えれば再審法改正も死刑制度廃止も急務だ。

 ただ、それらは新たな冤罪を防ぐものではない。だから無実の袴田さんがなぜ犯人にされたのか徹底的に解明し、改革することで新たな冤罪の発生を防がなければならない。日弁連も法改正の必要性を指摘している(24年10月9日会長談話)。

 袴田さんはじめ多くの冤罪犠牲者の存在は、冤罪の原因が捜査機関の暴走や裁判所の無能などではなく、戦後の刑事司法が内包する根本的問題にあることを示している。

捜査機関の証拠捏造を認定した静岡地裁判決

 静岡地裁判決は、袴田さんを犯人に仕立て上げた主要な証拠であった供述調書、犯行時の着衣とされた5点の衣類、実家から発見、とされたズボンの端切れについて、いずれも捜査機関による捏造と認めた。捜査機関が犯人捏造のために多用してきた虚偽の自白の強要や証拠の捏造を裁判所自身が認定し、弾劾したのは画期的だ。

 ただ、捜査機関のこの証拠捏造の背景には、当時の裁判所が「証拠」なしには有罪としなかったという事実がある。現在は多くの裁判所が〝間接証拠の積み重ね〟と称して、証拠がないのに有罪判決を出すようになった。その結果、証拠捏造の必要性は減った。

 この〝間接証拠の積み重ね〟という新たな犯人捏造の手法も弾劾し、使わせてはならない。

真実を追求しない刑事裁判 = 科学的証明と歴史的証明 =

 袴田事件の当初の捜査では被害者周辺の28人の市民が捜査対象に選ばれたが、27人は無実が明らかすぎて犯人にできず、最後の袴田さんの無実でその中に真犯人がいないことが明白となった。

 捜査活動の目的が真実・真犯人の発見であれば最初に捜査範囲を限定するのは愚行でしかないが、捜査機関はこの捜査範囲の限定手法を現在でも多用している。狭山冤罪事件では部落民を、和歌山カレー冤罪事件でも地域住民を、捜査機関は犯人がその中にいると決めつけた。

 実はそれには理由がある。

 最高裁が刑事裁判の目的は真実・真犯人の発見(科学的証明)ではなく、大多数の市民(実際は担当裁判官)が犯人に違いないと思い込める人間とその材料を探すこと(歴史的証明)だと宣言しているからだ(昭和23年8月5日 最高裁第一小法廷判決)。犯人に仕立てあげる市民を選ぶなら不特定多数ではなく、最初に範囲を限定してその中から最も捏造が容易な市民を選ぶのが効率的だ。

 実際、袴田さんが犯人に選ばれたのも28人の中で唯一彼が〝よそ者〟で〝ボクサー崩れ〟などという、事件とは無関係な偏見が根拠であった。

 また、それには誰でも犯人に仕立て上げられると脅すことで、事件周辺の市民を捏造に協力させ、捜査を批判させない効果もある。28人のうちの一人は別件逮捕されたがアリバイがあって犯人捏造を免れたが、別の一人の妻は「(袴田さんの逮捕がなければ)夫が犯人にされてもおかしくなかった」と取材に述べている(朝日新聞24年9月27日)。

 ヘイズBBCニュース東京特派員は人質司法の論考の中で、日本の治安の良さの背景にはこの恐怖もあると示唆している(19年2月15日)。

まず結論から始める裁判官=科学的論理と神学的論理=

 2014年の静岡地裁の再審開始決定について、袴田弁護団は「これまでの裁判所の判断方法とは違って」「常識的で簡明な論理」による「非常に厳密な事実認定」で「事実や証拠すべてを総合的にかつ合理的に説明できるかという姿勢で貫かれている」と評価している。一方、これまで裁判所は「被告人に不利な方向にのみ」「常識的な判断を超えた可能性論を用いてきた」と批判した(同弁護団HP)。

 この裁判所の「可能性論」は刑事裁判の目的が犯人捏造にあるからだが、それだけではない。

 市民社会の多くの分野では、証明とはある事実から出発して一定の検討を経て結論に至ること(科学的論理)だ。もっともらしい結論でも事実に反すれば捨てられるし、奇妙な結論でも事実に合えば受け入れられる。

 しかし、一部の分野では別の論理が使われる。結論から出発してそれを正当化する証拠・理由を探す。典型は「神は存在する。なぜなら‥」という神の存在証明(神学的論理)だ。そして裁判所が使うのも科学的論理ではなく神学的論理である。

 ある法律入門書にこんな記述がある。

 「自動車通行禁止の橋を自転車が渡るのは違法。なぜなら自転車も車の一種だから(拡張解釈)」

 「自転車通行禁止の橋を自転車が渡るのは合法。なぜなら自転車は自動車ではない(反対解釈)」

 自動車通行禁止の事実から自転車通行の可否の結論を出すのではなく、可否の結論をまず決め、その後それを正当化する事実や理由が選択される。

 袴田事件においても、原審は拷問による矛盾だらけの供述書のうち44通の任意性を否定したのに、事前に決められた有罪判決を書く必要のために同時期に作成された1通を採用した。

 再審開始決定において静岡地裁は「袴田が犯人と考えてもこの証拠は不自然ではない」という神学的論理ではなく、「この証拠は袴田を犯人と考えるのと無実と考えるのとどちらが自然か」という科学的論理を採用して再審開始を決定している。そしてそれは再審無罪判決にも踏襲された。

 静岡地裁が神学的論理ではなく科学的論理を採用して判断したこの事実が最も画期的なのである。

 袴田弁護団は、再審開始決定の背景に裁判員裁判の影響を示唆している。科学的論理を採用する市民が事実認定を行う裁判員裁判を拡大し、職業裁判官を排除した陪審員裁判へと変えていこう。

 防御権行使、当事者対等を否定した戦後の刑訴法

 戦後の刑訴法は、人権を否定し処罰の効率を求めた小野清一郎とその弟子・団藤重光らによって、それまでの捜査段階の被疑者の防御権を剥奪し、被告人・弁護人と検察官との当事者対等の原則を否定して作られた。

 日本の刑事司法の近代化を進めたボアソナードらにより1880年に制定された治罪法以降、明治刑訴法、大正刑訴法と日本の刑事司法は近代化と人権保障を拡大してきた。大正刑訴法の大きな特徴、現行刑訴法との違いは被疑者・被告人と検察官の当事者対等原則の確立と捜査段階での被疑者・被告人の防御権の保障である。

 「検事は公判においては、原告官として攻撃の立場にあり、故に検事の収集したる証拠をもって裁判の資料となすことは、公平を維持する所以にあらず。特に公平の地位に在る判事をして之に当たらしむるを適当なりと思量」(原文をひらがな表記に修正)(小齋甚治郎『刑事訴訟法概論』1942年)。

 大正刑訴法はこのように強制捜査と証拠収集・管理での検察官の特権的地位と権限を否定した。

 また、「当事者対等主義は公訴主義に於ける重要なる原則にして、現行法(大正刑訴法、著者注)はこの点に関して又極めて重要なる規定を置けり」(宮本英脩『刑事訴訟法講義』1934年)と、宮本・京都帝大教授は弁護人の証人尋問への立ち会い権、強制捜査の請求権、書類・証拠物の閲覧権、被告人・弁護人の押収、捜索、検証への立ち会い権という大正刑訴法の規定を紹介している。

 これに対して、小野清一郎は、当事者対等原則の確立と防御権の保障は、「役人の仕事を増し、公衆に迷惑を及ぼすのみならず、又手続を長引かせ、未決勾留の期間を長くする」(小野清一郎『刑事訴訟法講義』1924年)と強制捜査と証拠管理の権限を検察官に移すことを主張した。そして、それは1941年の治安維持法の全面改定などで端緒的に実現し、戦後の現行刑訴法制定で全面化した。

 現行刑訴法では、大正刑訴法が捜査段階で認めていた弁護人の全証拠閲覧権、捜索・検証・押収への立ち合い権が剥奪され、警察・検察による証拠捏造が簡単になった。

 逮捕令状制度の導入で警察・検察は形式的な手続きだけで市民の自由を簡単に奪い、市民は異議申し立てすらできなくなった。弾圧手法の代名詞だった〝たらい回し〟すら必要なくなった。

 勾留決定前に対象市民を直接尋問してその必要性を確かめる裁判官の義務もなくなった。

 強制捜査権と証拠管理権の裁判所から検察官への移行によって被疑者・被告人に有利な証拠や証言を隠蔽・破壊することも可能になった。

「供述調書」を証拠と認め拷問的取調べを主要手段に

 治安維持法のイメージから戦前の刑事司法では人権保障が低水準と考える市民は多いと思う。しかしそれは誤解だ。治安維持法から現行の戦後型刑事司法が始まった。それを端的に示すのが今も続く警察・検察作成の供述調書への証拠能力付与だ。

 拷問的取調べで虚偽の自白を強制して大量の供述調書を作成し、それを使って袴田さんを犯人に仕立て上げられたのも、人権保障と近代刑事司法の原則を後退させた戦後刑訴法ゆえだ。

 戦前、警察官や検察官には被疑者・被告人その他の市民を訊問する法的権限はなく、明治刑訴法では明文の規定はなかったがその調書も無効とされた。そこで警察・検察は、尋問ではなく、たまたま聞いた供述の報告「聴取書」だと言い換えた。現在の供述調書の被疑者の独白形式の始まりだ。もちろんその証拠能力は認められなかった。

 ところが1903年、大審院(今の最高裁)が、署名捺印があり「(被疑者・被告人の)自由任意の承諾」によるものという条件付きで聴取書の証拠能力を認めた(大判 明治36年10月22日)。

 そこで新たに24年施行の大正刑訴法で、明文で証拠能力を否定することになった。聴取書を証拠として認めることは「(証言や供述は法廷で行われるべきという)直接審理主義に合容れ」ず(大正刑訴法案の提案『理由書』)、「人権蹂躙問題の発生する根源」(同法案の国会審議での祷委員の質問)であり、「尋問をしてこれに答弁をさせるという一つの強制」は「法律をもって(裁判所が)するほかない」(同山内政府委員)という考えからだった。

 しかし30年代に日本が戦時体制に入ると、治安弾圧体制強化のために〝効率処理〟を理由に聴取書を証拠として認めようとする動きが生じた。

 最初は41年の改定治安維持法や国防保安法で検事に法的訊問権を与え、同法関係の事件で聴取書を証拠能力の認められる〝法に基づく書類〟とすることだった。続いて翌年の戦時刑事特別法では、大正刑訴法の制限規定の適用が停止され、全裁判で聴取書が証拠として認められるようになった。

 同法は46年に廃止されたが、47年の刑訴応急措置法も「強制‥による自白は」「証拠とすることはできない」など強制でない尋問があるかのような虚言を言い訳に聴取書の証拠能力を認めた。そしてそれは「調書」と名を変え現行刑訴法に引き継がれた。(参考:久岡康成「大正刑訴法と供述を録取した書面」立命館法学316号)

 人権蹂躙を防ぐために聴取書の証拠能力を認めなかった大正刑訴法は失われ、当時の危惧が現実になった。警察・検察による拷問的取り調べと自白強制が捜査の主要手段となった。

 犯罪から市民を守るのではなく、支配秩序のために市民を脅し、犠牲にするのが今の刑事司法だ。

 新たな袴田さんを生まないために、逮捕令状制度の廃止に向け、発付の地裁への限定や疎明資料開示、被疑者・被告人からの異議申し立てを可能にし、供述調書の証拠からの排除、弁護側への全証拠開示と被告人・弁護人の立ち会い権を実現しよう。

 市民の意思があればそれは可能だ。敗戦前の半世紀以上、日本は逮捕令状制度も供述調書もなしに、当事者対等と被疑者・被告人の防御権行使を認めて刑事司法を行ってきたのだから。(了)

2024年6月17日月曜日

戦争・軍事的暴走から命を守る孫子の三原則

  Twitter上で〝外交は軍事力の裏打ちが無いと効力はない〟と呟いた方がいた。

 もちろんこれは一部の例のみを取り上げて一般化した間違いで、多くの外交において軍事力の裏打ちは必要ないし存在しない。

 こんな常識的な批判を投稿したところ、無数の反論が寄せられた。そのほとんどは無知と感情論でしかなく、ここで紹介する手間にも耐えられるものではない。

 ただそこで痛感したのは、日本の市民の中に広がる軍事についての無知と知ろうともしない無関心だ。戦争に賛成するにしろ反対するにしろ、まず戦争とは何か理解するところから始めるべきだ。

 マルクスは言う。〝問題を正しく立てれば答えは自ずからその中にある〟

 そこで、ここで戦争とは何か、軍事とは何かについて検討してみたい。

 ただし、私は軍事の専門研究者ではない。実戦を生き延びる必要から軍事について必死に学んできただけの存在だ。だから、ここで検討するのは実践的な視点からの軍事の基礎に限られる。ただ、厳密な正確性はない代わりに理解は容易いかもしれない。

【前提:外交と軍事の定義】

 まず、外交とは何か、軍事とは何か、簡単に規定しておこう。

 外交とは、彼我双方の意志と利益の調整によって、自らの意志と利益を最大限に実現する能力とその行為

 なお、日本政府の定義は次の通り。

 「いずれの国の外交も,その目的は,国際社会における国益の確保,すなわちその国の利益・権利の擁護と伸長をはかることと,国際社会の一員として世界の平和と繁栄に貢献することにある。」

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1969/s43-13-1-2-1.htm

 軍事とは、自らの意志と利益を相手に、逆らえないものとして強制する能力とその行為

 この外交と軍事の表面的類似性から、外交と軍事を同一視したり、外交には軍事が不可欠という誤謬が生じる。しかし外交と軍事は全く別物であり、時に対立する。〝戦争(軍事力の行使)は外交の失敗の結果である〟とも言われる所以である。

 軍事は外交の一手段ともなりうるが、軍事によって実現した外交的成果の多くは不安定で、一時的なものであり、時間経過と共にその維持コストが上昇して最後には崩壊する。その典型が第一次大戦後のベルサイユ体制である。戦勝国の過度な戦勝利益追求は敗戦国ドイツを追い詰め、最終的に第二次大戦を生み出した。

【軍事を理解するための3原則】

 軍事を理解するための最良の教科書は孫子とクラウゼウィッツである。

 ベトナム敗戦後の米国軍部が、敗北の原因究明のために研究したのも孫子とクラウゼウィッツだった。

 特に孫子(の兵法)は、元防衛大学校教授の杉之尾宜生によれば「『武力戦』(戦争のこと)の回避、抑止そして短期化を志向する兵法書」(『現代語訳 孫子』「はじめに」)であり、戦争と軍拡に反対する市民こそが学ぶべき対象なのである。

《大前提》

 軍事は科学であって、信仰ではない。したがって、正確な現状認識から出発し、合理主義によって方針が立てられなければならない。

 〝神から与えられた使命〟とか偏狭な愛国心、排外主義は徹底して排除しなければならない。相手を理解することが肝心であって、特に相手の蔑視による過小評価は必ず軍事における失敗に直結する。

《第1の原則》

 孫子「兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。」

 〝軍事を弄んではならない〟と言われる根拠である。

 軍事とは常に膨大な犠牲と負担、リスクを伴うものであるから、犠牲と負担とを最初に考えなければならない。

 第1原則をより具体化すれば次のようになる。

1、軍事によって獲得される利益は常にその獲得に要した犠牲、負担と比較し、それに見合ったものか否かが点検されなければなならない。

 〝一将功なって万骨枯る〟のような闘い方はどれほどの利益が生じようとも愚策中の愚策であると孫子は考える。

2、軍事によって生じる犠牲と負担がそれに容認しうる限界を超える場合には、利益がどれほど多くても軍事を利用してはならない。

 軍事的熱狂のもとで最初に忘れられるのはこの犠牲と負担の存在である。そして犠牲と負担の過剰を訴える者は怯懦、非国民と吊し上げられさえする。その結果の無謀な戦争突入はかつての日本のように国を滅びの瀬戸際にまで追いやってしまう。

 だからこれが、第1の原則である。

 なお、孫子を戦争に勝利するためのノウハウ本と考える一部の人間(特に軍人に多いようだ)はこの一文を軽視する。せいぜい、〝戦争に負けると国が滅びかねないから、戦争に勝つためにそのノウハウに習熟せよ〟という警告としてしかとらえない。孫子はそのような通俗的警告を述べてはいない。孫子は国にとっての戦争、軍事の意味を解明し、その結論として戦争は可能な限り避けるべきであり、軍事は可能な限り使用すべきではないと述べているのである。この思想は次の「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり」に端的に示されている。

《軍事に頼らない国家を作る5ポイント》

 そして、孫子はそうした軍事に頼らない国家を作り上げるために必要な五つのポイントを挙げる。

 まず第一にあげられるのが最重要なポイントが道、すなわち内政の重視である。

 ついで天、すなわち国際情勢に適応すること、第三に地、すなわち地理的条件、言い換えると外交の活用である。

 さらに第四が将、すなわち人材の登用、第五が法、すなわち法制度と官僚制度などの充実と続けられる。つまり政府機関の有能性、機能性の追求である。

 要するに、国が民衆の利益を第一に経営され、民衆もまたそうした国を支持するなら、軍事に頼る必要も他国からの軍事的挑発につけ込まれる可能性も低くなる。

 戦争や軍事的冒険主義がしばしば、内政の失敗から国民の目を逸らすために行われることを考えるなら、この孫子の指摘を常に想定することはとても大切である。

 ここでも、戦争の勝利方法を求めて孫子を読む人間は、この「五事」を戦争動員の問題、戦略・戦術における情勢、地の利などに矮小化して理解する傾向がある。しかし、孫子がここ(始計編)で述べているのは国家にとっての戦争・軍事の意味であって、戦略・戦術論ではないからそのような理解は誤りである。

《第2の原則》

 孫子「是の故に百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。」

 〝戦わずして勝つ〟といわれる文章である。

 政治(外交)において非軍事的手段がまず選択されるべきであり、非軍事的手段が尽くされない限り軍事的手段を使用してはならない。

 これについて前に紹介した杉之尾も「国家間の紛争解決は、現実に武力を行使するのではなく、平素の政治・外交的努力によって解決すべきことを主張するもの」(前掲書、p.57)と理解している。

 軍事の直接の目的は、〝相手の戦闘力を破壊することで相手の戦闘意思を挫くこと〟とされる。しかし、孫子はそれは愚策だとする。

 孫子「凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ」

 およそ軍事を使う限り「国を全うする」ことはありえない。軍事を政治(外交)全体の中で考え、非軍事的手段を優先し、どうしても必要な場合はそれと軍事的手段とを有機的に結合する、この考え方はクラウゼウィッツとも共通する。

 非軍事的手段による政治(外交)は軍事よりはるかに過酷で困難な道である。自らの意思や利益が100%貫かれることはまれで、妥協と譲歩が常道となる。そこで非軍事的手段を放棄して軍事に走るという安易な道を選択する誘惑は強い。日本の国際連盟脱退がその典型である。最近のイスラエルのガザ侵攻も同じで、これは同時に軍事的勝利が政治的敗北を生み出している例でもある。

 だからこれが、第2の原則である。

《第3の原則》

 クラウゼウィッツ「戦争とは別個の手段をもってする政治の継続である」

 戦争とは、政治的目的を実現するための手段であるから、常に政治的目的から戦争の可否、継続、中断が判断されなければならない。

 いったん、戦争が始まると相手の打倒=戦闘力の破壊に意識が集中し、政治目的が見失われてしまう。また、戦争〜戦闘における勝利は必ずしも政治目的の寄与に直結するとは限らず、政治目的実現の桎梏と化すことも少なくない。

 孫子「ゆえに、敵を殺す者は怒りなり」(敵の軍隊を殲滅することを戦争・軍事行動の目的とするのは、思慮を失った無謀無用の用兵である)

 戦前の日本軍、特に海軍においては日本の継戦能力の欠如が理解され、対米戦における一定の勝利の後の和平交渉が想定されていたと思われる。しかし、真珠湾攻撃の成功はその政治目的を見失わせ、闇雲に軍事的勝利を追求することで和平交渉の道を閉ざす結果になった。また、ミッドウェーでの大敗後も日本政府・軍部は逆転の一撃を求めて、無謀な軍事行動を継続し、無意味な犠牲を積み重ねていったのである。

 その典型が沖縄戦である。その犠牲の大きさ(第1の原理)からしても、統一した政治目的の欠如(第3の原則:〝本土決戦のための時間稼ぎ〟と〝和平交渉のための逆転の一撃〟という齟齬)からしても、それは戦前の日本政府・軍部の最大の愚行と言わなくてはならない。

 孫子「利に非ざれば動かず、得るに非ざれば用いず、危うきに非ざれば戦わず」(火攻編:国家目的に寄与しない戦争は、目的実現の可能性のない戦争は、他に手段のない危急存亡の時でなければ戦争は行ってはならない)のである。

 また陸軍については、杉之尾は日本政府・軍部の政治目的の欠落を弾劾し「そのため帝国陸軍は、中国大陸における個々の作戦・戦闘には勝利しておりながら、気がついてみたら戦争に敗北する最低の愚を犯し」(前掲書「はじめに」)と厳しく批判している。

 だからこれが第3の原則である。

 孫子もクラウゼウィッツも研究を進めれば軍事と戦争についての理解は深まると思う。残念ながら私にはその機会がなかった。多くの市民にとってもそうだと思う。

 しかし、ここに述べた3原則をもとに軍事と戦争を理解しようとするだけで、戦争と軍事を弄ぶ政府の軍事冒険主義に反対し、戦争から利益を得る軍需産業とそれに結合した政治家、その尻馬に乗る戦争オタクの好戦主義的デマを跳ね返すことが可能になる。

繰り返しになるが、

戦争を何が得られるかではなく、それによって失われるものを基準に評価すること、

戦争に代わる非軍事的手段を追求すること、

戦争は政治的目的を実現する手段であり、軍事的目標ではなく政治的目的を基準に判断すること

 これが、戦争という暴挙を防ぐ最良の手段となる。

【中国脅威論=軍事冒険主義という愚行】

 現在、日本政府は中国の軍事的脅威が高まったとして、国防費の倍増を決定して軍備の増強を実行している。これは、まさに軍事を弄び、戦前の日本政府・軍部の失敗を再現する愚行にほかならない。そこにあるのは一部軍需産業の利益のために国家と市民を犠牲にする腐敗した政府である。

 内政つまり市民生活を犠牲にして軍部拡大に走っても、軍備増強は相手のさらなる軍備増強を引き出すだけであり、軍拡競争は軍事的にも政治的にも何らの成果を上げることができない(第1、第3の原則)。孫子も「作戦編」で闇雲な軍事依存が生み出す犠牲と負担の大きさ、その危険性を厳しく指摘している。

 また、脅威論の背景に中台問題という中国の内政に関わる外交的問題が存在し、それは非軍事的外交手段によって解決すべきで問題であると同時に、局外者の日本が関与すべき問題ではない。にもかかわらず、日本政府は何らの政治的獲得物もないこの問題に軍事的手段で対応しよう(第2原則)としている。

 特に日本政府が、脅威を口実に改憲を行い、憲法第9条・平和主義という強力な政治的効果を持ち、実績もある非軍事的外交手段を放棄しようとしているのは愚行中の愚行というべきである。世界最強の軍事力を持つ米国も9.11を防げなかった。西欧諸国でもほぼ同様である。しかし、日本では未だ大規模攻撃はない。これが憲法第9条の非軍事的外交の効果である。

 「攻めてきたらどうする」などという俗論は、孫子を学んでその軍事行動における相手国の犠牲・負担の大きさ、侵攻の前提となる政治目的・獲得物の欠落を理解すれば、机上の空論でしかないことがわかる。「何のために、何を目的として攻めてくるのか?」。この反論にまともに答えられる者はいない。

2024年5月29日水曜日

袴田事件は戦後の治安維持法型刑訴法が生み出した冤罪

=袴田事件の具体的検討=

 袴田事件は、1941年の拡大治安維持法で始まり、戦後全面化した治安維持法型刑訴法が生み出した冤罪である。

 もし事件が戦後の治安維持法型刑訴法以前に起きたらどうなるか、具体的に見ていこう。

【令状逮捕はなかった】

 事件は1966年6月30日に発生した。警察は当初から袴田さんを犯人と決めつけ、8月18日逮捕した。

 治安維持法型刑訴法以前の大正刑訴法では警察は現行犯以外の逮捕権がないから袴田さんを逮捕はできない。

 身柄を拘束したいときは裁判所に勾留状を申請しなければならないが、裁判所は勾留するときは直接袴田さんを尋問しなければならない。

 警察の一方的資料だけで被疑者に弁解の機会も与えず簡単に逮捕状が出る現行逮捕制度とは大きく違う。

【自白調書は証拠とならなかった】

 袴田さんは逮捕後の拷問的取り調べで9月6日に自白し、9日に起訴された。警察の取り調べは起訴後も続き、自白調書は45通に及んだ。

 一審静岡地裁は、45通のうち44通を無効とし、1通の検察官調書を採用して有罪を言い渡した。捜査の進展に合わせて自白を取り直したため全調書を採用すると矛盾が生じる。そのため完成品の調書1通を採用したということだろう。

 大正刑訴法下でも警察による拷問的取り調べは行われたが、それで作られた自白調書(当時は聴取書という)は証拠とは認められない。証拠となるのは袴田さんが拷問から解放された後、裁判官(捜査専門の裁判官で「予審判事」という)前で行った供述だけだ。

 袴田さんは、実際には公判(裁判官の前)で無実を訴えているので、予審判事の取る調書も袴田さんが無実を訴えるものとなるだろう。

 なお、起訴後の警察の取り調べは禁止されている。

【弁護人の立ち会いで証拠捏造は不可能】

 証拠としては当初は血のついたパジャマとされていたが、血痕がついていないことが判明した。

 そこで検察は裁判開始から1年2ヶ月後、従業員が味噌タンクから発見したとする5点の衣類を法廷に提出した。血液型が袴田さんと一致し、その後警察が袴田さんの自宅から発見したとするズボンの端布が一致したことから、これも有罪の根拠とされた。

 では大正刑訴法下だったらどうなるか。

 まず、これらの証拠物の押収は予審判事の指揮下で行われ、弁護士も立ち会うので、捏造は非常に困難である。また押収された証拠は直ちに弁護人に開示されるので、パジャマに血がついていないことや5点の衣類の血の色の不自然さは捜査段階で確認できる。発見した従業員の尋問も公判で行われるか、捜査段階なら弁護人の立ち合いの下で行われるので、証言の矛盾の指摘も容易となる。

 袴田事件では、逃走路として裏木戸の検証が行われ、その際警察が金具を工作した疑いが指摘されているが、大正刑訴法下なら予審裁判官の指揮下で弁護人立会で行われるので、ここでも工作は困難となる。

【検察官の写真隠匿も不可能】

 なお、袴田さんの訴えなどで弁護人が袴田さんに有利な証拠を知った時は、大正刑訴法下なら予審判事に申請して押収してもらい、公判に提出される。検察官に証拠の管理権がないから、被疑者・被告人に有利な証拠を現代のように隠匿・破壊することはできない。再審の根拠となった5点の衣類のカラー写真も予審判事が押収して、裁判前に弁護人に開示されるからその時点で無罪が確定する。

 だから事件が戦前の大正刑訴法下で発生したとすれば、収集される証拠は袴田さんの無実を訴える調書だけだから公判を開くまでもなく棄却されるだろう。

 警察・検察がなんとか証拠捏造に成功したとしても全証拠の開示で弁護人の写真などの検討により無罪となるだろう。

 結局、袴田冤罪事件は、捜査過程から被告人や弁護人を排除し、証拠管理を検察官に委ねた戦後の治安維持法型刑訴法の下で初めて可能となったのである。


=人権重視の大正刑訴法=

 現在、全証拠の開示などを要求している人が、戦前に既にそれらが実現していることを知ったら驚くだろう。

 では限られた人権保障規定しかない帝国憲法下で、現在を上回る人権保障が実現していたのはなぜだろうか。

 戦前の法曹界には限られた憲法の人権規定を最大限に活用しようとする人権重視派と人権よりも効率(治安)を重視する小野清一郎を頂点とする治安重視派が対立し、前者が主流を占めていたからである。

 その対立は主要に、強制捜査権行使の主体を捜査専門の裁判官=予審判事に委ねる予審制度を維持するか、廃止して検察官に与えるかにあった。

【防御権行使の主体】

 人権重視派は、被告人を断罪される客体とする糾問主義から訴訟の主体とする弾劾主義への転換の視点から、検察官も被告人に対抗する一当事者と考えた。そこで、
「検事は公判においては、原告官としてとして攻撃の立場にあり、故に検事の収集したる証拠をもって裁判の資料となすことは、公平を維持する所以にあらず。特に公平の地位に在る判事をして之に当たらしむるを適当なりと思量」小齋甚治郎『刑事訴訟法概論』昭和17年
と予審制度を擁護した。

【当事者の対等】

 さらに、人権重視派は
「当事者対等主義は公訴主義に於ける重要なる原則にして、現行法はこの点に関して又極めて重要なる規定を置けり」(宮本英脩『刑事訴訟法講義』昭和9年)
として、

① 予審判事が公判に召喚し難いと思う証人の尋問への検事、弁護人の立ち合い

② 検事及び被告人、弁護人は予審中いつでも必要な処分(強制捜査)を予審判事に請求することができる

③ 検事と同様、予審判事の許可を得て弁護人は書類、証拠の閲覧が可能(全証拠の開示)

④ 被告人又は弁護人は押収、捜索及び検証の際には立ち会いを許される

⑤  嫌疑を受けた理由の告知にあたり他の被告人や証人との対質尋問を予審判事に請求できる

の各項目を挙げている。

 被告人、弁護人が捜査過程に主体的に関わる権利を全て剥奪され、ただ捜査の対象とのみされている現在とあまりにも違いすぎる。

【立法政策的効率が重要】

 これに対して、治安重視派の小野清一郎は次のように予審制度を批判する。

 「公判前の手続きを(検察の行う)捜査及び予審の二つの段階に分つことは」「立法政策的見地からして果たして此の二重の手続きを維持するだけの必要があるか」「この二つの段階を経ることが多くの場合に無用な尋問の繰返しをなすに過ぎない。そのために役人の仕事を増し、公衆に迷惑を及ぼすのみならず、又手続を長引かせ、未決勾留の期間を長くする」(小野清一郎『刑事訴訟法講義』大正13年)

 小野清一郎の意識にあるのは立法政策的効率だけであり、被告人は最後にようやく言及するだけである。

【検事の証拠収集の徹底を欠く】

 「検事が一旦予審を請求するとその証拠収集は全く予審判事の手に帰してしまい」「(検事は)いかなる処分を必要とするかさへ十分には分からぬ」「責任が両者(検事と予審判事)に分たれることは仕事の興味と、従って之(証拠収集)に対する決定を欠く」(同前)

 小野清一郎にとって証拠収集とは検事が被告人を断罪する材料探しであり、訴訟の主体としての被告人の存在とその防御権行使は徹底的に無視される。

【予審判事は検事の委任者と強弁】

 「事実に於いて予審判事は検事からの委任を受けた捜査機関であって」「その調書は予審判事の作成したものであるというので、公判に於いて動かし難い証明力を生じる」「被告人にとって不利益だ」(同前)

 小野清一郎は、予審判事は検事に従属した存在と嘯き、その調書は被告人に不利と被告人を脅すのである。

【予審は糾問主義という嘘】

 小野清一郎の目的は、予審制度のもとで検事と被告人・弁護人が対等に闘う公判の準備である捜査過程から、被告人への人権保障と主体としての被告人の存在を抹殺し、捜査を検察官が一方的に被告人を断罪するための材料探しに変えてしまうことである。

 これは刑事手続きの被告人を一方の訴訟主体とする近代の弾劾主義訴訟構造を、被告人が一方的に断罪される客体に変える近代以前の糾問主義訴訟構造に戻そうとするものであるが、その批判を避けるために小野清一郎は刑事手続を公判と捜査過程に切り離し、捜査過程は現在も糾問主義だと嘯く。

 「予審手続はその形式に於いて糾問的であって、公判手続きのみが明らかに弾訴式(弾劾主義)に組み立てられている」(同前)


=人権と被告人の主体性を否定した戦後刑訴法=

【戦時体制下での治安維持法型刑事手続きの始まり】

 戦時体制の進行と共に、法曹界の人権重視派は後退、抹殺され、治安重視派が台頭する。

 1941年に全面改定された治安維持法の第2章で、治安維持法事件に限定だが、検察官に初めて強制捜査権が与えられた。

 検事には被疑者を勾引・勾留する権利を与えられた。戦後、これは形式的な令状請求で被疑者を拘束できる逮捕令状制度となった。

 また被疑者を尋問する権利が与えられた。これによりそれまで証拠能力を認められていなかった検察官調書が証拠となった。自白調書だけで有罪にする調書裁判の始まりである。

 押収、捜索、検証を行うことも認められた。弁護人の立ち会いは認められなくなった。

 これによって収集されて証拠は検事の管理下に置かれるとともに、弁護人の開示請求権がないことから検事は不都合な証拠を隠蔽・破壊することができる。

 検事の強制捜査権に対して、被告人・弁護人が自身に有利な証拠の確保のため捜査権の発動を求めることも認められていない。

 こうして被疑者と弁護人は捜査過程から完全に排除され、捜査はただ検事が被告人を有罪に追い込む材料探しの過程と変質したのだ。

 こうしてみると41年治安維持法の第2章こそが戦後刑訴法の原型であることは明らかだろう。

【小野・治安重視派に支配された戦後法曹】

 戦後の法曹界は、治安重視派の重鎮・小野清一郎に支配され予審制は解体されるとともに、予審を肯定的に評価するどころか触れることもタブーとなった。このタブーを犯した法曹人は徹底的にパージされ、法曹界から追放された。沢登佳人さんが直面したのがそれだ。

 その結果、奇妙なことに捜査過程から被疑者・弁護人が排除され、ただ捜査の対象とされる戦後刑訴法が近代的な弾劾主義で、予審制度が糾問主義という小野の逆説が現代でも通用しているし、警察・検察の作文(調書)がほぼ無条件に証拠とされ有罪の根拠とされているのに、裁判官(予審判事)の作成した尋問記録(予審調書)の方が被告に不利という小野の脅しを真顔で主張する法曹人が絶えない。

 なお、大正刑訴法から戦後の刑訴法への移行を、大陸法系から英米法系への移行と説明する法曹人もいるが、英米法系の刑事システムでは弁護側が全証拠にアクセスする権利が保障され、弁護人にも一定の捜査権限も認められているなど被告側の主体性も当事者対等原則も機能しており、戦後の治安維持法型刑訴法と英米法系の刑事システムとは似て非なるものと言わなければならない。

 今必要なのは、治安維持法型刑訴法をそのままにして全証拠開示や取り調べの可視化を求めるという弥縫策ではない。検察から強制捜査権を剥奪し裁判所に委ねる予審制の復活である。

「証拠裁判主義」を否定した大阪高裁・飯島健太郎判事

  冤罪犠牲者の一人として刑事裁判で裁判官が最高裁や政府から独立して判断し、無罪推定の原則を貫く様求めている私が、大阪高裁・飯島健太郎判事の訴追を執拗に求めるのは、飯島判事が日本の刑事裁判史上で初めて、近代刑事裁判の根本的原則である 「事実の認定は、証拠による(刑訴法第317条)...