2024年5月29日水曜日

袴田事件は戦後の治安維持法型刑訴法が生み出した冤罪

=袴田事件の具体的検討=

 袴田事件は、1941年の拡大治安維持法で始まり、戦後全面化した治安維持法型刑訴法が生み出した冤罪である。

 もし事件が戦後の治安維持法型刑訴法以前に起きたらどうなるか、具体的に見ていこう。

【令状逮捕はなかった】

 事件は1966年6月30日に発生した。警察は当初から袴田さんを犯人と決めつけ、8月18日逮捕した。

 治安維持法型刑訴法以前の大正刑訴法では警察は現行犯以外の逮捕権がないから袴田さんを逮捕はできない。

 身柄を拘束したいときは裁判所に勾留状を申請しなければならないが、裁判所は勾留するときは直接袴田さんを尋問しなければならない。

 警察の一方的資料だけで被疑者に弁解の機会も与えず簡単に逮捕状が出る現行逮捕制度とは大きく違う。

【自白調書は証拠とならなかった】

 袴田さんは逮捕後の拷問的取り調べで9月6日に自白し、9日に起訴された。警察の取り調べは起訴後も続き、自白調書は45通に及んだ。

 一審静岡地裁は、45通のうち44通を無効とし、1通の検察官調書を採用して有罪を言い渡した。捜査の進展に合わせて自白を取り直したため全調書を採用すると矛盾が生じる。そのため完成品の調書1通を採用したということだろう。

 大正刑訴法下でも警察による拷問的取り調べは行われたが、それで作られた自白調書(当時は聴取書という)は証拠とは認められない。証拠となるのは袴田さんが拷問から解放された後、裁判官(捜査専門の裁判官で「予審判事」という)前で行った供述だけだ。

 袴田さんは、実際には公判(裁判官の前)で無実を訴えているので、予審判事の取る調書も袴田さんが無実を訴えるものとなるだろう。

 なお、起訴後の警察の取り調べは禁止されている。

【弁護人の立ち会いで証拠捏造は不可能】

 証拠としては当初は血のついたパジャマとされていたが、血痕がついていないことが判明した。

 そこで検察は裁判開始から1年2ヶ月後、従業員が味噌タンクから発見したとする5点の衣類を法廷に提出した。血液型が袴田さんと一致し、その後警察が袴田さんの自宅から発見したとするズボンの端布が一致したことから、これも有罪の根拠とされた。

 では大正刑訴法下だったらどうなるか。

 まず、これらの証拠物の押収は予審判事の指揮下で行われ、弁護士も立ち会うので、捏造は非常に困難である。また押収された証拠は直ちに弁護人に開示されるので、パジャマに血がついていないことや5点の衣類の血の色の不自然さは捜査段階で確認できる。発見した従業員の尋問も公判で行われるか、捜査段階なら弁護人の立ち合いの下で行われるので、証言の矛盾の指摘も容易となる。

 袴田事件では、逃走路として裏木戸の検証が行われ、その際警察が金具を工作した疑いが指摘されているが、大正刑訴法下なら予審裁判官の指揮下で弁護人立会で行われるので、ここでも工作は困難となる。

【検察官の写真隠匿も不可能】

 なお、袴田さんの訴えなどで弁護人が袴田さんに有利な証拠を知った時は、大正刑訴法下なら予審判事に申請して押収してもらい、公判に提出される。検察官に証拠の管理権がないから、被疑者・被告人に有利な証拠を現代のように隠匿・破壊することはできない。再審の根拠となった5点の衣類のカラー写真も予審判事が押収して、裁判前に弁護人に開示されるからその時点で無罪が確定する。

 だから事件が戦前の大正刑訴法下で発生したとすれば、収集される証拠は袴田さんの無実を訴える調書だけだから公判を開くまでもなく棄却されるだろう。

 警察・検察がなんとか証拠捏造に成功したとしても全証拠の開示で弁護人の写真などの検討により無罪となるだろう。

 結局、袴田冤罪事件は、捜査過程から被告人や弁護人を排除し、証拠管理を検察官に委ねた戦後の治安維持法型刑訴法の下で初めて可能となったのである。


=人権重視の大正刑訴法=

 現在、全証拠の開示などを要求している人が、戦前に既にそれらが実現していることを知ったら驚くだろう。

 では限られた人権保障規定しかない帝国憲法下で、現在を上回る人権保障が実現していたのはなぜだろうか。

 戦前の法曹界には限られた憲法の人権規定を最大限に活用しようとする人権重視派と人権よりも効率(治安)を重視する小野清一郎を頂点とする治安重視派が対立し、前者が主流を占めていたからである。

 その対立は主要に、強制捜査権行使の主体を捜査専門の裁判官=予審判事に委ねる予審制度を維持するか、廃止して検察官に与えるかにあった。

【防御権行使の主体】

 人権重視派は、被告人を断罪される客体とする糾問主義から訴訟の主体とする弾劾主義への転換の視点から、検察官も被告人に対抗する一当事者と考えた。そこで、
「検事は公判においては、原告官としてとして攻撃の立場にあり、故に検事の収集したる証拠をもって裁判の資料となすことは、公平を維持する所以にあらず。特に公平の地位に在る判事をして之に当たらしむるを適当なりと思量」小齋甚治郎『刑事訴訟法概論』昭和17年
と予審制度を擁護した。

【当事者の対等】

 さらに、人権重視派は
「当事者対等主義は公訴主義に於ける重要なる原則にして、現行法はこの点に関して又極めて重要なる規定を置けり」(宮本英脩『刑事訴訟法講義』昭和9年)
として、

① 予審判事が公判に召喚し難いと思う証人の尋問への検事、弁護人の立ち合い

② 検事及び被告人、弁護人は予審中いつでも必要な処分(強制捜査)を予審判事に請求することができる

③ 検事と同様、予審判事の許可を得て弁護人は書類、証拠の閲覧が可能(全証拠の開示)

④ 被告人又は弁護人は押収、捜索及び検証の際には立ち会いを許される

⑤  嫌疑を受けた理由の告知にあたり他の被告人や証人との対質尋問を予審判事に請求できる

の各項目を挙げている。

 被告人、弁護人が捜査過程に主体的に関わる権利を全て剥奪され、ただ捜査の対象とのみされている現在とあまりにも違いすぎる。

【立法政策的効率が重要】

 これに対して、治安重視派の小野清一郎は次のように予審制度を批判する。

 「公判前の手続きを(検察の行う)捜査及び予審の二つの段階に分つことは」「立法政策的見地からして果たして此の二重の手続きを維持するだけの必要があるか」「この二つの段階を経ることが多くの場合に無用な尋問の繰返しをなすに過ぎない。そのために役人の仕事を増し、公衆に迷惑を及ぼすのみならず、又手続を長引かせ、未決勾留の期間を長くする」(小野清一郎『刑事訴訟法講義』大正13年)

 小野清一郎の意識にあるのは立法政策的効率だけであり、被告人は最後にようやく言及するだけである。

【検事の証拠収集の徹底を欠く】

 「検事が一旦予審を請求するとその証拠収集は全く予審判事の手に帰してしまい」「(検事は)いかなる処分を必要とするかさへ十分には分からぬ」「責任が両者(検事と予審判事)に分たれることは仕事の興味と、従って之(証拠収集)に対する決定を欠く」(同前)

 小野清一郎にとって証拠収集とは検事が被告人を断罪する材料探しであり、訴訟の主体としての被告人の存在とその防御権行使は徹底的に無視される。

【予審判事は検事の委任者と強弁】

 「事実に於いて予審判事は検事からの委任を受けた捜査機関であって」「その調書は予審判事の作成したものであるというので、公判に於いて動かし難い証明力を生じる」「被告人にとって不利益だ」(同前)

 小野清一郎は、予審判事は検事に従属した存在と嘯き、その調書は被告人に不利と被告人を脅すのである。

【予審は糾問主義という嘘】

 小野清一郎の目的は、予審制度のもとで検事と被告人・弁護人が対等に闘う公判の準備である捜査過程から、被告人への人権保障と主体としての被告人の存在を抹殺し、捜査を検察官が一方的に被告人を断罪するための材料探しに変えてしまうことである。

 これは刑事手続きの被告人を一方の訴訟主体とする近代の弾劾主義訴訟構造を、被告人が一方的に断罪される客体に変える近代以前の糾問主義訴訟構造に戻そうとするものであるが、その批判を避けるために小野清一郎は刑事手続を公判と捜査過程に切り離し、捜査過程は現在も糾問主義だと嘯く。

 「予審手続はその形式に於いて糾問的であって、公判手続きのみが明らかに弾訴式(弾劾主義)に組み立てられている」(同前)


=人権と被告人の主体性を否定した戦後刑訴法=

【戦時体制下での治安維持法型刑事手続きの始まり】

 戦時体制の進行と共に、法曹界の人権重視派は後退、抹殺され、治安重視派が台頭する。

 1941年に全面改定された治安維持法の第2章で、治安維持法事件に限定だが、検察官に初めて強制捜査権が与えられた。

 検事には被疑者を勾引・勾留する権利を与えられた。戦後、これは形式的な令状請求で被疑者を拘束できる逮捕令状制度となった。

 また被疑者を尋問する権利が与えられた。これによりそれまで証拠能力を認められていなかった検察官調書が証拠となった。自白調書だけで有罪にする調書裁判の始まりである。

 押収、捜索、検証を行うことも認められた。弁護人の立ち会いは認められなくなった。

 これによって収集されて証拠は検事の管理下に置かれるとともに、弁護人の開示請求権がないことから検事は不都合な証拠を隠蔽・破壊することができる。

 検事の強制捜査権に対して、被告人・弁護人が自身に有利な証拠の確保のため捜査権の発動を求めることも認められていない。

 こうして被疑者と弁護人は捜査過程から完全に排除され、捜査はただ検事が被告人を有罪に追い込む材料探しの過程と変質したのだ。

 こうしてみると41年治安維持法の第2章こそが戦後刑訴法の原型であることは明らかだろう。

【小野・治安重視派に支配された戦後法曹】

 戦後の法曹界は、治安重視派の重鎮・小野清一郎に支配され予審制は解体されるとともに、予審を肯定的に評価するどころか触れることもタブーとなった。このタブーを犯した法曹人は徹底的にパージされ、法曹界から追放された。沢登佳人さんが直面したのがそれだ。

 その結果、奇妙なことに捜査過程から被疑者・弁護人が排除され、ただ捜査の対象とされる戦後刑訴法が近代的な弾劾主義で、予審制度が糾問主義という小野の逆説が現代でも通用しているし、警察・検察の作文(調書)がほぼ無条件に証拠とされ有罪の根拠とされているのに、裁判官(予審判事)の作成した尋問記録(予審調書)の方が被告に不利という小野の脅しを真顔で主張する法曹人が絶えない。

 なお、大正刑訴法から戦後の刑訴法への移行を、大陸法系から英米法系への移行と説明する法曹人もいるが、英米法系の刑事システムでは弁護側が全証拠にアクセスする権利が保障され、弁護人にも一定の捜査権限も認められているなど被告側の主体性も当事者対等原則も機能しており、戦後の治安維持法型刑訴法と英米法系の刑事システムとは似て非なるものと言わなければならない。

 今必要なのは、治安維持法型刑訴法をそのままにして全証拠開示や取り調べの可視化を求めるという弥縫策ではない。検察から強制捜査権を剥奪し裁判所に委ねる予審制の復活である。

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