2024年11月26日火曜日

新たな袴田さんを生まないために

 新たな袴田さんを生まないために

- 袴田弁護団 再審の決定は「裁判員裁判の影響か」 -


 本年(2024年)9月26日、静岡地裁は再審裁判で無実の袴田巌さんに無罪判決を出し、静岡地検が10月9日に控訴を断念して無罪が確定した。

 この無罪判決を受けて再審法改正や死刑制度の廃止を訴える声が広がっている。今も冤罪と闘う多くの市民が全国にいることを考えれば再審法改正も死刑制度廃止も急務だ。

 ただ、それらは新たな冤罪を防ぐものではない。だから無実の袴田さんがなぜ犯人にされたのか徹底的に解明し、改革することで新たな冤罪の発生を防がなければならない。日弁連も法改正の必要性を指摘している(24年10月9日会長談話)。

 袴田さんはじめ多くの冤罪犠牲者の存在は、冤罪の原因が捜査機関の暴走や裁判所の無能などではなく、戦後の刑事司法が内包する根本的問題にあることを示している。

捜査機関の証拠捏造を認定した静岡地裁判決

 静岡地裁判決は、袴田さんを犯人に仕立て上げた主要な証拠であった供述調書、犯行時の着衣とされた5点の衣類、実家から発見、とされたズボンの端切れについて、いずれも捜査機関による捏造と認めた。捜査機関が犯人捏造のために多用してきた虚偽の自白の強要や証拠の捏造を裁判所自身が認定し、弾劾したのは画期的だ。

 ただ、捜査機関のこの証拠捏造の背景には、当時の裁判所が「証拠」なしには有罪としなかったという事実がある。現在は多くの裁判所が〝間接証拠の積み重ね〟と称して、証拠がないのに有罪判決を出すようになった。その結果、証拠捏造の必要性は減った。

 この〝間接証拠の積み重ね〟という新たな犯人捏造の手法も弾劾し、使わせてはならない。

真実を追求しない刑事裁判 = 科学的証明と歴史的証明 =

 袴田事件の当初の捜査では被害者周辺の28人の市民が捜査対象に選ばれたが、27人は無実が明らかすぎて犯人にできず、最後の袴田さんの無実でその中に真犯人がいないことが明白となった。

 捜査活動の目的が真実・真犯人の発見であれば最初に捜査範囲を限定するのは愚行でしかないが、捜査機関はこの捜査範囲の限定手法を現在でも多用している。狭山冤罪事件では部落民を、和歌山カレー冤罪事件でも地域住民を、捜査機関は犯人がその中にいると決めつけた。

 実はそれには理由がある。

 最高裁が刑事裁判の目的は真実・真犯人の発見(科学的証明)ではなく、大多数の市民(実際は担当裁判官)が犯人に違いないと思い込める人間とその材料を探すこと(歴史的証明)だと宣言しているからだ(昭和23年8月5日 最高裁第一小法廷判決)。犯人に仕立てあげる市民を選ぶなら不特定多数ではなく、最初に範囲を限定してその中から最も捏造が容易な市民を選ぶのが効率的だ。

 実際、袴田さんが犯人に選ばれたのも28人の中で唯一彼が〝よそ者〟で〝ボクサー崩れ〟などという、事件とは無関係な偏見が根拠であった。

 また、それには誰でも犯人に仕立て上げられると脅すことで、事件周辺の市民を捏造に協力させ、捜査を批判させない効果もある。28人のうちの一人は別件逮捕されたがアリバイがあって犯人捏造を免れたが、別の一人の妻は「(袴田さんの逮捕がなければ)夫が犯人にされてもおかしくなかった」と取材に述べている(朝日新聞24年9月27日)。

 ヘイズBBCニュース東京特派員は人質司法の論考の中で、日本の治安の良さの背景にはこの恐怖もあると示唆している(19年2月15日)。

まず結論から始める裁判官=科学的論理と神学的論理=

 2014年の静岡地裁の再審開始決定について、袴田弁護団は「これまでの裁判所の判断方法とは違って」「常識的で簡明な論理」による「非常に厳密な事実認定」で「事実や証拠すべてを総合的にかつ合理的に説明できるかという姿勢で貫かれている」と評価している。一方、これまで裁判所は「被告人に不利な方向にのみ」「常識的な判断を超えた可能性論を用いてきた」と批判した(同弁護団HP)。

 この裁判所の「可能性論」は刑事裁判の目的が犯人捏造にあるからだが、それだけではない。

 市民社会の多くの分野では、証明とはある事実から出発して一定の検討を経て結論に至ること(科学的論理)だ。もっともらしい結論でも事実に反すれば捨てられるし、奇妙な結論でも事実に合えば受け入れられる。

 しかし、一部の分野では別の論理が使われる。結論から出発してそれを正当化する証拠・理由を探す。典型は「神は存在する。なぜなら‥」という神の存在証明(神学的論理)だ。そして裁判所が使うのも科学的論理ではなく神学的論理である。

 ある法律入門書にこんな記述がある。

 「自動車通行禁止の橋を自転車が渡るのは違法。なぜなら自転車も車の一種だから(拡張解釈)」

 「自転車通行禁止の橋を自転車が渡るのは合法。なぜなら自転車は自動車ではない(反対解釈)」

 自動車通行禁止の事実から自転車通行の可否の結論を出すのではなく、可否の結論をまず決め、その後それを正当化する事実や理由が選択される。

 袴田事件においても、原審は拷問による矛盾だらけの供述書のうち44通の任意性を否定したのに、事前に決められた有罪判決を書く必要のために同時期に作成された1通を採用した。

 再審開始決定において静岡地裁は「袴田が犯人と考えてもこの証拠は不自然ではない」という神学的論理ではなく、「この証拠は袴田を犯人と考えるのと無実と考えるのとどちらが自然か」という科学的論理を採用して再審開始を決定している。そしてそれは再審無罪判決にも踏襲された。

 静岡地裁が神学的論理ではなく科学的論理を採用して判断したこの事実が最も画期的なのである。

 袴田弁護団は、再審開始決定の背景に裁判員裁判の影響を示唆している。科学的論理を採用する市民が事実認定を行う裁判員裁判を拡大し、職業裁判官を排除した陪審員裁判へと変えていこう。

 防御権行使、当事者対等を否定した戦後の刑訴法

 戦後の刑訴法は、人権を否定し処罰の効率を求めた小野清一郎とその弟子・団藤重光らによって、それまでの捜査段階の被疑者の防御権を剥奪し、被告人・弁護人と検察官との当事者対等の原則を否定して作られた。

 日本の刑事司法の近代化を進めたボアソナードらにより1880年に制定された治罪法以降、明治刑訴法、大正刑訴法と日本の刑事司法は近代化と人権保障を拡大してきた。大正刑訴法の大きな特徴、現行刑訴法との違いは被疑者・被告人と検察官の当事者対等原則の確立と捜査段階での被疑者・被告人の防御権の保障である。

 「検事は公判においては、原告官として攻撃の立場にあり、故に検事の収集したる証拠をもって裁判の資料となすことは、公平を維持する所以にあらず。特に公平の地位に在る判事をして之に当たらしむるを適当なりと思量」(原文をひらがな表記に修正)(小齋甚治郎『刑事訴訟法概論』1942年)。

 大正刑訴法はこのように強制捜査と証拠収集・管理での検察官の特権的地位と権限を否定した。

 また、「当事者対等主義は公訴主義に於ける重要なる原則にして、現行法(大正刑訴法、著者注)はこの点に関して又極めて重要なる規定を置けり」(宮本英脩『刑事訴訟法講義』1934年)と、宮本・京都帝大教授は弁護人の証人尋問への立ち会い権、強制捜査の請求権、書類・証拠物の閲覧権、被告人・弁護人の押収、捜索、検証への立ち会い権という大正刑訴法の規定を紹介している。

 これに対して、小野清一郎は、当事者対等原則の確立と防御権の保障は、「役人の仕事を増し、公衆に迷惑を及ぼすのみならず、又手続を長引かせ、未決勾留の期間を長くする」(小野清一郎『刑事訴訟法講義』1924年)と強制捜査と証拠管理の権限を検察官に移すことを主張した。そして、それは1941年の治安維持法の全面改定などで端緒的に実現し、戦後の現行刑訴法制定で全面化した。

 現行刑訴法では、大正刑訴法が捜査段階で認めていた弁護人の全証拠閲覧権、捜索・検証・押収への立ち合い権が剥奪され、警察・検察による証拠捏造が簡単になった。

 逮捕令状制度の導入で警察・検察は形式的な手続きだけで市民の自由を簡単に奪い、市民は異議申し立てすらできなくなった。弾圧手法の代名詞だった〝たらい回し〟すら必要なくなった。

 勾留決定前に対象市民を直接尋問してその必要性を確かめる裁判官の義務もなくなった。

 強制捜査権と証拠管理権の裁判所から検察官への移行によって被疑者・被告人に有利な証拠や証言を隠蔽・破壊することも可能になった。

「供述調書」を証拠と認め拷問的取調べを主要手段に

 治安維持法のイメージから戦前の刑事司法では人権保障が低水準と考える市民は多いと思う。しかしそれは誤解だ。治安維持法から現行の戦後型刑事司法が始まった。それを端的に示すのが今も続く警察・検察作成の供述調書への証拠能力付与だ。

 拷問的取調べで虚偽の自白を強制して大量の供述調書を作成し、それを使って袴田さんを犯人に仕立て上げられたのも、人権保障と近代刑事司法の原則を後退させた戦後刑訴法ゆえだ。

 戦前、警察官や検察官には被疑者・被告人その他の市民を訊問する法的権限はなく、明治刑訴法では明文の規定はなかったがその調書も無効とされた。そこで警察・検察は、尋問ではなく、たまたま聞いた供述の報告「聴取書」だと言い換えた。現在の供述調書の被疑者の独白形式の始まりだ。もちろんその証拠能力は認められなかった。

 ところが1903年、大審院(今の最高裁)が、署名捺印があり「(被疑者・被告人の)自由任意の承諾」によるものという条件付きで聴取書の証拠能力を認めた(大判 明治36年10月22日)。

 そこで新たに24年施行の大正刑訴法で、明文で証拠能力を否定することになった。聴取書を証拠として認めることは「(証言や供述は法廷で行われるべきという)直接審理主義に合容れ」ず(大正刑訴法案の提案『理由書』)、「人権蹂躙問題の発生する根源」(同法案の国会審議での祷委員の質問)であり、「尋問をしてこれに答弁をさせるという一つの強制」は「法律をもって(裁判所が)するほかない」(同山内政府委員)という考えからだった。

 しかし30年代に日本が戦時体制に入ると、治安弾圧体制強化のために〝効率処理〟を理由に聴取書を証拠として認めようとする動きが生じた。

 最初は41年の改定治安維持法や国防保安法で検事に法的訊問権を与え、同法関係の事件で聴取書を証拠能力の認められる〝法に基づく書類〟とすることだった。続いて翌年の戦時刑事特別法では、大正刑訴法の制限規定の適用が停止され、全裁判で聴取書が証拠として認められるようになった。

 同法は46年に廃止されたが、47年の刑訴応急措置法も「強制‥による自白は」「証拠とすることはできない」など強制でない尋問があるかのような虚言を言い訳に聴取書の証拠能力を認めた。そしてそれは「調書」と名を変え現行刑訴法に引き継がれた。(参考:久岡康成「大正刑訴法と供述を録取した書面」立命館法学316号)

 人権蹂躙を防ぐために聴取書の証拠能力を認めなかった大正刑訴法は失われ、当時の危惧が現実になった。警察・検察による拷問的取り調べと自白強制が捜査の主要手段となった。

 犯罪から市民を守るのではなく、支配秩序のために市民を脅し、犠牲にするのが今の刑事司法だ。

 新たな袴田さんを生まないために、逮捕令状制度の廃止に向け、発付の地裁への限定や疎明資料開示、被疑者・被告人からの異議申し立てを可能にし、供述調書の証拠からの排除、弁護側への全証拠開示と被告人・弁護人の立ち会い権を実現しよう。

 市民の意思があればそれは可能だ。敗戦前の半世紀以上、日本は逮捕令状制度も供述調書もなしに、当事者対等と被疑者・被告人の防御権行使を認めて刑事司法を行ってきたのだから。(了)

「証拠裁判主義」を否定した大阪高裁・飯島健太郎判事

  冤罪犠牲者の一人として刑事裁判で裁判官が最高裁や政府から独立して判断し、無罪推定の原則を貫く様求めている私が、大阪高裁・飯島健太郎判事の訴追を執拗に求めるのは、飯島判事が日本の刑事裁判史上で初めて、近代刑事裁判の根本的原則である 「事実の認定は、証拠による(刑訴法第317条)...